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日本福音同盟神学委員会、日本福音同盟理事会に「LGBTQ+ と共に生きる教会」の記事に対する問題提起を送付しました。

2024.01.31  

2023年9月に発行された日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』に、吉川直美牧師の記事「LGBTQ+と共に生きる教会」が掲載されました。

この記事の内容に、NBUS呼びかけ人は大変憂慮しています。

この記事が両論併記という形を取りながら、随所でLGBTQ+擁護論を展開しているためです。

LGBTQ+の聖書的理解は、教会が神のみことばに立つか、背教に向かうかの分岐点となる問題だと考えていますので、
以下の通り、問題提起をさせていただきました。


日本福音同盟神学委員会、日本福音同盟理事会の皆様

吉川直美牧師の記事「LGBTQ+ と共に生きる教会」を憂慮する

日本の福音派教会のために日々重責を担ってくださっている皆様に感謝いたします。

20239月に発行された日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』に、吉川直美牧師の記事「LGBTQ+ と共に生きる教会」が掲載されました。この記事の内容に、NBUS(性の聖書的理解ネットワーク)呼びかけ人は大変憂慮しています。この記事が両論併記という形を取りながら、随所でLGBTQ+擁護論を展開しているためです。LGBTQ+の聖書的理解は、教会が神のみことばに立つか、背教に向かうかの分岐点となる問題だと考えていますので、この書簡で問題提起をさせていただきます。

なお、ここで言う「LGBTQ+擁護論」とは、「聖書では、一対一の男女の夫婦間の性生活だけに限らず、LGBTQ+と呼ばれる人々の性生活も許容されているという主張」と定義しておきます。

LGBTQ+擁護論の危険性

LGBTQ+擁護論は、教会が社会に影響を与えるのではなく、社会が教会に影響を与えて教会を変質させるという現代的な現象の典型例です。しかし教会が本来の教えを失い、社会と同化するなら、教会の地の塩としての役割を放棄することになります。マタイ513では、塩気を失った塩の運命が語られています。

13  あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

日本でも教会の老齢化や衰退が叫ばれて久しいですが、今教会が力を失っているのは、社会のニーズに迎合するあまり、教会本来の塩気を失いつつあるからではないでしょうか。

「LGBTQ+ と共に生きる教会」の問題点

以下に、吉川牧師の記事「LGBTQ+ と共に生きる教会」の問題点をいくつか挙げてみたいと思います。

同性愛は罪ではないという主張

吉川牧師は、冒頭のページで次のように語っておられます。

みなさまの身近に、また教会にLGBTQ の方はいらっしゃるでしょうか。身近にいるはずなのに、カミングアウトができずにいる方たち、教会にいるとしても隠しておられるか、あるいは、教会やクリスチャンには近づかないのかもしれません。というのも、教会では長い間「同性愛者」や性的マイノリティは、まごうことなき「罪人」 であるとされてきた歴史があるからです。
日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.41

これは同性愛が罪ではないと言っているのに等しい発言です。しかし、同性愛が罪であることは聖書を読めば明らかです。ローマ1262732には次のように言われています。

26  こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 27  同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。… 32  彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。 

そのほかにも、聖書は旧新約一貫して同性愛が罪であると語っています(創世記19129、レビ1822、レビ2013、エゼキエル1649501コリント691テモテ1102ペテロ2610、ユダ17)。このような聖書箇所を見ても同性愛を罪ではないと言うのは詭弁でしかありません。

LGBTQ+の救いの機会を奪う

吉川牧師は、ジョン・ボスウェルが1980年に出版した『キリスト教と同性愛』を次のように評価しています。

彼の著書は聖書学者から徹底的に批判されましたが、ゲイとレズビアンのカップルを教会に迎え入れることを可能にする、キリスト教聖書の異なる読み方への扉を開きました。
日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.42

「ゲイとレズビアンのカップルを教会に迎え入れる」とは、LGBTQ+のライフスタイルにとどまっていても救われるという教えです。これに対し、吉川牧師は好意的に評価しています。この点は記事全体の論調を見れば明らかであると思います。

しかし、1コリント6911では次のように教えています。

9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者 10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。 11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

910節で「神の国を相続することができません」と言われている中に、「淫らな行いをする者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者」と、同性愛などの性的な罪が含まれています。このみことばを字義通りに解釈すると、同性愛者は、同性愛者のライフスタイルを続けているなら、救われていないということになります。そうだとすると、LGBTQ+の人々に今のライフスタイルを続けてもクリスチャンになれますと言うことは、LGBTQ+の人々が罪を悔い改めて救われる機会を奪うことになります。

聖書のみことばを否定する

このように言うと、記事「LGBTQ+ と共に生きる教会」にあるように、次のような反論が返ってくると思います。

みなさんが、今自認しておられる性は間違っていると言われて、異なる性で生きるようにできるでしょうか。あるいは、あなたの恋愛対象は同性でなければならないと言われて、自分の意志で変えることができるでしょうか。それと同じことをLGBTQ+の人々に要求してきたのです。そうなると、彼/彼女が受洗できる道は、自分の心を偽って、教会の求める性自認に納得して生きるふりをするしかありません。
日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.43

この主張はもっともなように聞こえます。ただ、上記の1コリント611で言われていることと矛盾します。11節では、「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした」と言われています。「そのような者」には同性愛者も含まれますが、「以前は」と過去形で語られています。つまり、今はそうではないということです。コリント教会の元同性愛者は、同性愛者としてのライフスタイルを捨てたというパウロの証言です。これは「偶像を拝む者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」にも当てはまることです。もちろん、罪を犯すことはあるでしょうが、そのようなライフスタイルは過去のものになったということです。吉川牧師の主張をそのまま受け入れるなら、1コリント611のみことばを否定することになります。

クィア神学という背教の教えを受け入れる扉を開く

LGBT+擁護論は、「クィア神学」を受け入れる扉を開くことになります。吉川牧師も、クィアという概念とクィア神学を次のように好意的に紹介しています。

クィアは元々、性的マイノリティに対する「奇妙な」「変態」といった意味合いの侮蔑語ですが、セクシュアリティ、ジェンダーアイデンティティ、生殖器の面で周縁化された人々が含まれる包括的な用語です。因習や権威をひっくり返し、セクシュアリティやジェンダーに関する境界線を消し去り、脱構築しようとする試みとして、クィアな存在を肯定的に捉えます。クィア神学では、主イエスご自身が、神と人、天と地、聖さと汚れという超えられない境界を乗り超えて私たちのもとに来てくださり、選ばれた者と拒絶されていた者をひとつにしてくださったと理解します。
日本福音同盟神学委員会編『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.45

吉川牧師は、「クィア神学では、主イエスご自身が、神と人、天と地、聖さと汚れという超えられない境界を乗り超えて私たちのもとに来てくださり、選ばれた者と拒絶されていた者をひとつにしてくださったと理解します」と記しておられます。この紹介文を読むと、何か良いもののように思えます。しかし、クィア神学の実際の主張を見ていくと、これはかなり美化された表現であり、背教の教えが教会に入ることを許してしまう危険な紹介文だとわかります。クィア神学について論じると長くなるので、付録として最後に記載しています。

まとめ

冒頭の繰り返しになりますが、LGBTQ+を聖書的にどう理解するかという問題は、教会が聖書的信仰にとどまるか、背教に向かうかの分岐点となる問題です。また、LGBTQ+の人々の救済論、罪論、聖書論(聖書の無謬性)に関わる大きな問題です。ぜひ聖書的な立場でこの問題を吟味し、退けるべき教えに対しては毅然とした態度で臨んでいただくようお願いいたします。

2024131
性の聖書的理解ネットワーク(NBUS)呼びかけ人一同

 

 

付録:クィア神学という背教の教え

クィア神学には、聖書的な信仰を持つクリスチャンであれば眉をひそめるような、異端的、あるいは冒涜的な教えが多数含まれています。ここでは、その一例としてパトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)を取り上げます。本書は、クィア神学の入門書としては唯一邦訳されているものです。また、これは入門書としてクィア神学のさまざまな論者の主張を取り上げていますので、クィア神学全体を見渡すのにふさわしいと思います。この書籍は、吉川牧師の記事で参考文献として挙げられているので、吉川牧師も内容をご存じであるはずです。

吉川牧師は、クィア神学の紹介で「セクシュアリティやジェンダーに関する境界線を消し去り」(『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.45)と記していました。しかし、境界線を消し去るのは性に関する区別だけではありません。著書のパトリック・チェンはクィア神学について次のように語っています。

クィア神学とは、古典的なキリスト教神学が究極的には本質主義的なカテゴリーの教会を消し去るものでなければならないと論じている。この本質主義的なカテゴリーはセクシュアリティやジェンダーの領域に関するもののみを指すのではない。それは生と死、神と人といった、より根本的な境界のことも指している。そのような境界を消し去ることこそがキリスト教神学の根本的な目的である、とクィア神学は提唱しているのである。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.2425

ここで注目したいのは、クィア神学が「神と人」という「より根本的な境界」を消し去ることを提唱していることです。

1)神と人の境界を消し去る

「神と人の境界を消し去る」というのは、異端の教理によくある教えです。たとえば、エホバの証人はキリストは神でないと言い、モルモン教は人が神になれると教えます。こうした異端の神学では、神を神の座から引き下ろし、人を神の座に引き上げるような内容が教えられます。

クィア神学では、神を人のレベルに引きずり下ろして論じることがよくあります。たとえば、先ほど紹介した『ラディカル・ラブクィア神学入門』の著者、パトリック・チェンは次のように語っています。

クィア神学者たちは、神に性的な役割を重ね合わせることで、伝統的に考えられてきた「全能」という神の特性をパロディ化してきた。たとえば、シカゴ神学校の神学者、セオドア・ジェニングスは、ヘブライ語聖書の神ヤハウェは、イスラエルのダビデとの同性愛関係における「攻め役」として理解できると論じた。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.68

チェンは、神を同性愛者である自分たちと同じ土俵に下ろして論じ、「全能」という神の特性を「パロディ化」すると語っています。「パロディ」とは同書の前ページで「カテゴリーを消し去る働き」と言われているため、これは神と人というカテゴリーを消し去る教えであると言うことができます。

また、神を同性愛者に見立てて、ダビデと同性愛行為に及ぶ際の「攻め役」とまで表現しています。聖書で「忌み嫌うべきこと」(レビ1822など)と言われている同性愛を神が行うという考えは、冒涜と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。

1)聖書の神ではない神を礼拝

また、チェンは次のようにも論じています。

古典的な神の観念では、神は全権力を握っているものとして、全知(omniscience)、全能(omnipotence)、そして全き慈愛(omnibenevolence)の存在と表現されてきた。しかしクィア神学者にとって、このような神理解は有害なものである。たとえばロバート・ウィリアムズはLGBTの人々に、子どもの頃持っていたような神のイメージ(それはたいていの場合虐待的で悪魔的なもの)を「燃やしてしまう」ことを勧めている。その代わりに私たちは神のモデル――たとえば女性としての神、祖母としての神、恋人としての神、そして私たちとともに苦しむ神など――を持たなければならないとウィリアムズは論じる。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.69

ここでは神は全知全能という理解を「有害なもの」として否定し、「女性としての神、祖母としての神、恋人としての神」という、聖書にはない神理解を持たなくてはならないと論じています。このようなクィア神学者が礼拝している神は、聖書の神ではありません。

2)クリスチャンは三位一体の一部

また、チェンは次のようにも教えています。

私たちキリスト者も、神の共同体(三位一体)から除外されてはいない。それどころか、私たちは完全にこの神の内なる共同体に含まれているのだ! 私たちはキリストの体(三位一体の第二の位格)の一部として、今この地球上において、たしかに三位一体に含まれているのである。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.74

ここでは、「クリスチャンはキリストのからだ」という聖書の教えを曲解して、クリスチャンが全能の神である三位一体に含まれていると教えています。これは人を神の座に引き上げる異端的な主張です。

2)聖さと汚れの境界を消し去る

吉川牧師の記事では、「クィア神学では聖さと汚れという超えられない境界を乗り超えて」(『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.45)と言われていました。チェンによると、クィア神学では聖さと汚れの境界を消し去ることには次のような内容も含まれます。

キャシー・ルーディは、行きずりの性的関係がいかに他者へのホスピタリティと歓迎の一例となりうるかということを論じている。ルーディがここで提唱しているのはホスピタリティの倫理であり、それは本質的にはソドムとゴモラの物語の逆転の発想です。初期のキリスト教会の特徴は、社会でのけ者にされていた人を歓迎するという徹底した寛容さにあった。それゆえ、ホスピタリティの倫理は他のすべての問題(セクシュアリティを含む)をしのぐ最重要の規範として認識されなければならない。その結果、いくつかの性的な行為――行きずりの性行為、複数での性行為を含む――はそれ自体が禁じられたものとはならず、その行為がホスピタリティに基づいたものかどうかという基準で評価されることになる。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.128

チェンが紹介するキャシー・ルーディの神学によると、ソドムとゴモラの罪は同性愛の罪ではなく、旅人をもてなさない「ホスピタリティ」の罪とされています。一方、「行きずりの性行為、複数での性行為」を含む性的な行為は、人々をもてなす倫理的な行為とされています。ここでは、「聖さと汚れの境界」が消え去り、さらに従来は「汚れ」とされてきた行為が「聖なる」行為となるという逆転現象が起こっています。このようなキリスト教神学の基準を根本からひっくり返す主張が、クィア神学の神髄です。吉川牧師がクィア神学を「因習や権威をひっくり返し、セクシュアリティやジェンダーに関する境界線を消し去り、脱構築しようとする試みとして、クィアな存在を肯定的に捉えます」(『「聖書信仰」の成熟をめざして2』p.45)と語っていたとおりです。

3)キリスト教を内部から崩壊させる

クィア神学はキリスト教にLGBTQ+的な要素を付け足すものではなく、キリスト教を内部からひっくり返して崩壊させるものです。チェンは次のように語っています。

神学者ロバート・ショア=ゴス(自らをゲイであると公にした神学者であり、メトロポリタン・コミュニティ教会の牧師)はクィア神学はその根本からして超越的な試みであると表現した。彼は「クィア」という言葉を一見規範的だと思われているもの(そこには「異性愛主義的神学」も含まれる)を「徹底的にひっくり返す」行為を表す言葉として用いている。つまり、なにかを「クィアする」ということは、現状維持に挑戦し、それを崩壊させようとする方法論を取るということである。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.19

ここでは、クィア神学は「異性愛主義的神学」を含む従来のキリスト教神学を「徹底的にひっくり返す」もので、「それを崩壊させようとする」と言われています。クィア神学では、三位一体などの正統的な教理が崩壊していることは先ほど見た通りです。チェンの著書では、それだけではなく、イエス・キリスト、聖霊、罪、贖い、性、家族といった聖書の教えも徹底的にひっくり返されています。

クィア神学の具体的な教え

クィア神学のおかしな教えを挙げていけば切りがないのですが、いくつか気になるものを以下に挙げておきます。

三位一体は「乱交パーティーのようなもの」

チェンは、クィア神学の草分け的存在であるアルトハウス=リードの三位一体論について、次のように語っています。

アルトハウス=リードにとって三位一体は、二項対立的・一夫一妻的関係性の特権を崩壊させる乱交パーティーのようなものと理解される。一見すると三位一体は、神の三つの位格が閉鎖的で互いに貞節な性的関係の中にいる「制限された複数愛」の例のように見える。しかし、アルトハウス=リードは、三位一体のそれぞれの位格は実は秘密の恋人や「許されざる欲望」(たとえば、イエスとマグダラのマリアの関係、またはイエスとラザロの関係のように)を持っていると論じる。そしてこの事実は、「関係性が制限されるべきものであるという幻想」を打ち砕くのである。このように、三位一体は複数愛を支持する人々のモデルとなりうる。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.76

複数愛(ポリアモリー)とは、同時に複数人と同意の上で恋愛関係を築くことを意味します。LGBTQ+は、規範的な性関係を結ぶことができないセクシュアルマイノリティ(性的少数者)全体を包含する概念ですので、ポリアモリーもLGBTQ+に含まれます。アルトハウス=リードは、三位一体を「乱交パーティーのようなもの」と呼び、ポリアモリーのモデルとなると主張しています。このような教えは冒涜以外の何ものでもありません。

クィア神学は貞節を目指してはいない

同性愛者でも、パートナーを愛して一対一の関係を保っていれば、異性愛も同性愛も同じではないかと言う方がおられます。しかし、クィア神学は貞節を目指してはいません。チェンは著書で次のように記しています。

フェアフィールド大学のカトリック学の教授であるポール・レイクランドは新しい「欲望の教会論」を提唱し、教会内のより強い一致を促した。具体的には、教会は自らを表現する際に異性婚のたとえを用いる(たとえば、教会をキリストの花嫁とたとえるなど)ことをやめるべきだとレイクランドは論じる。配偶者の概念は、互いを所有することやその関係が永遠のものであるという意味合いを含んでおり、それはスチュワートが論じた関係の「風通しのよさ」という特徴とそぐわない。それゆえレイクランドは、教会は異性婚のたとえの代わりに「欲望」を自らを表現するたとえとして用いるべきだと論じる。欲望――すなわち、他者とのより緊密な関係を求め続ける心――に焦点を当てることで、無数の関係性(プラトニックな友情から一夜限りの関係、さらに生涯にわたるパートナーシップに至るまで)が可能となり、最終的にはそれが教会の一致を強めていくことになる
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.127

LGBTQ+には、ポリアモリーも含まれます。それもあって、LGBTQ+コミュニティに性的関係を一対一に限定しないといけないという考え方は一般的に希薄です。実際に、クィア神学の文献を読む中で、性的関係は一対一に限定すべきだと主張する論者には出会いませんでした。

吉川牧師は記事の中で、LGBTQ+擁護派と否定派の間で「対立、分離が起こっていることは憂慮すべき状況です」と述べていますが、レイクランドの言うような「一致」が実現する方がよほど憂慮すべき状況です。

同性愛を罪と言うことが罪

チェンは「神の法を犯せば、必ず罰せられる」という論理のアプローチを律法主義的アプローチと呼び、罪とは何かについて次のように語ります。

この律法主義的アプローチとは対象に、罪を「ラディカル・ラブの拒否」と考えると、罪をより深く理解することができる。つまり、もし神がラディカル・ラブ(すなわち、あらゆる種類の境界を崩壊させるほど極端な愛)ならば、罪とは神に反すること、つまりラディカル・ラブに反することを指す。罪とは境界や隔てを消し去ることに対する抵抗である。具体的に言えば、セクシュアリティやジェンダー・アイデンティティ、またその他の既存の境界線を強固なものとするとき、私たちは罪を犯しているということだ。
パトリック・S・チェン著(工藤万里江訳)『ラディカル・ラブクィア神学入門』(新教出版社、2014年)p.88

この定義に従うと、罪を犯しているのは同性愛者ではなく、セクシュアリティの境界線を消し去ることに抵抗して「同性愛は罪」と言う方が、罪を犯していることになります。これも、聖書の教えを守るクリスチャンと同性愛者の立場を「徹底的にひっくり返し」、キリスト教倫理を内部から崩壊させる教えであると言えます。