Q&A

旧約聖書の律法の教えは何でしょうか。

ジェンダーと性について 

旧約聖書のモーセ五書に、神がイスラエルの民に与えた「律法」が含まれています。この律法に関する聖書個所を解釈する時に念頭に置かなければならないことがあります。聖書は論文や取扱説明書のようにトピックを章ごとに綺麗に並べてはいません。聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で聖書の断片を一つ一つ吟味し、似ているピースと組み合わせていくことによって少しずつ全体像が見えてくるのです。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのまま学び、受け取る姿勢が重要です。懐疑論者や聖書の反対者たちは、聖書の節を文学的、歴史的、神学的な文脈から取り外して、聖書の長年の理解や聖書自体の信頼性を貶めるのです。しかし、ジグソーパズルのピースのように、聖書の様々な記述や教えは、その直接的な文脈や広い文脈の中で意味をなすように設計されているのです。

旧約聖書を上記のように学んでいくうちに気がつくことは、律法には3項目があることです:
1)儀式的律法ーこれはイスラエル人の礼拝や宗教行事に関係することで、いけにえや捧げ物、祭司職のあり方、礼拝の場所(王国時代までは「幕屋」、その後は「宮」)などを含む内容です。ヘブル人への手紙を読むと、儀式的律法はキリストの贖いのわざを反映し、それを予告するようなものであることが説明されています。ですから、キリストが十字架に架けられ、復活し、昇天したことによって、これらすべてが成就され、もはや現在において続ける意味がないと言うことになります。

2)国法としての律法ーイスラエルは神の真理と救いを国々に表す大切な使命を与えられていました。次のように書いてあります。「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、そのように行うためである。これを守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」(申4・5~8)

この個所にあるように、律法の一部は「神の選民」としての役目を果たすためのものでした。それは、例えばカニや豚肉を食べないこと(健康に関連する戒め)、相続のルール(社会的秩序に関連する戒め)、死刑に値する犯罪(正義に関する戒め)などのような内容です。そしてパウロが明らかにしたように、現在の「異邦人の時代」には参考になりますが、直接クリスチャンが守るべき内容ではないのです。
3)普遍的モラルーこの項目はすべての国民に当てはまる規則で、十戒がその例です。では、普遍的モラルに当てはまるかどうかをどのように判断するのでしょうか。たいてい文脈で分かりますが、具体的には、とても強い表現が使われている場合、イスラエルだけでなく他の国民にも向けられた場合、あるいは新約聖書で同じ内容が繰り返された場合には、普遍的なモラルだと分かります。

すると、この言葉は上記のどれに当てはまるのでしょうか:

「女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」(申22・5)あるいは、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。これは道ならぬことである。あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。」(レビ18・22~25)。

まず、「あなたの神、主は忌みきらわれる」という、とても強い表現が使われています。
次に、カナン人がこのようなことをしたことで神に裁かれていることが述べられています。つまり、これらはイスラエル人だけの問題ではないということです。
そして、新約聖書には似たような内容が繰り返されています。その一つの例はローマ人への手紙1章26、27節です。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

つまり、この内容は神が定めた普遍的モラルであることが分かります。その背後にある原則は旧約聖書にも新約聖書にも繰り返し強調されていることですが、人間同士の性的関係は結婚している男性と女性との間だけにあるべきものということです。姦淫、近親の性関係、レイプ、動物との性、売春行為、同性愛行為などはすべてこの原則に反し、聖書はそれらをすべて「罪」と呼んでいます。もう一つの聖書的原則は、男性が女性らしく振舞うことも、女性が男性らしく振る舞うことも、神は喜ばれないということです。いわゆる「性転換」はまさにこの原則に反する行為ですし、男性が女装したり、女性が男として生きたりすることも、この普遍的モラルに反することです。結婚においても、教会においても、その他の分野においても、男性と女性のあり方には神が定めた違いがあることを聖書は教えています。そして、神の創造の趣旨と善悪の基準を守ることによって、人類は最も祝福されることは明らかです。


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