Q&A

なぜジェンダーの問題が重要なのでしょうか。

ジェンダーと性について 

ある人々は、ジェンダーや性を問題にすることに疑問を感じます。「一人一人にその人の生き方があるし、クリスチャンはすべての人々を愛し、寛容であるべきではないのでしょうか」という意見を時々聞きます。さらに、「他の人の考え方やライフスタイルを罪と呼ぶことは差別で、人権の侵害だ」とまで断言する人も、珍しくありません。しかし、ジェンダーと性の問題はクリスチャンにとってマイナー的な教えに関する議論ではなく、まさに救いに関する問題です。コリント人への手紙第一6章9~11節に次のように書かれています:「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

この個所の趣旨は、悔い改めずに罪の中にとどまる者は「神の国を相続することができません」ということです。内面的にジェンダーや性についての混乱を覚えることは罪ではありません。しかし、上記にあるように、「不品行」(他の聖書の訳は「淫らな行い」、結婚外の性行為)、「姦淫」、*「男娼」( 同性関係の受け身役の者、自分を女らしくする男性、トランスジェンダーらしきあり方、と言う意味を含んだ少し曖昧な言葉)、*「男色」(現代用語では同性愛のこと)のような行為は罪であり、悔い改めを要します。そうとは言え、悔い改めるまでにより深い理解と霊的敏感さに到達するプロセスが必要かもしれませんし、悔い改めてからもその罪を克服することが困難なことは言うまでもありません。いずれにせよ、ここでパウロがコリントの教会に関して問題にしている大きなことは、「私たちはこのままでいいんだ! 悔い改める必要はない!」と主張しながら罪の中にとどまる「クリスチャン」です。

さらに多くの人々は、聖書的な「愛」に関して誤解しています。愛は人々の思いのままにしてあげること、何でもその人がすることを肯定することではありません。真の愛は、相手にとって最善のことをしてあげること、最善を求める関わり方をすることです。神の愛もそうです。ですから、神は私たちが悪から離れ、正しい生き方ができるよう、子どものように愛し、懲らしめると書かれています(ヘブル人への手紙12・4~13を参照)。罪の中にとどまることを容認することは、真の愛ではありません。同じように、破壊的な生き方から離れるようアピールしないことも真の愛ではありません。神の愛と義を人々に伝える時、誤解され、反対されますが、それはクリスチャンの使命であるので、勇気をもってするよう決断しなければなりません。

罪にとどまることに問題がないと教えるクリスチャンの牧師やリーダーに関しても、聖書は厳しい言葉で忠告しています。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マコ9・42)性的罪やジェンダー混乱のただ中におられる方々に「悔い改める必要はありませんよ。神はあなたをこのようにお造りになったのですから。これからもそのままでいいんですよ」と導くなら、救いに関係することでは基本的に異端的視点です。しかし残念ながら、あるクリスチャンの牧師や指導者や教会は聖書の権威を否定したり、不自然で誠実ではない聖書の解釈をしたりしようとするので、多くの人々はこの問題に関してなおさら混乱を覚えます。でも、このような問題は旧約聖書の時代から現代まで続いていることで、クリスチャンはどのような声や視点に従うのか、影響されるのかに注意が必要です。(エレ14・14、マタ7・15~17、使20・28~30、Ⅱペテ2・1~3を参照)

*「男娼」(原文のギリシャ語では、「マラコス」)、「男色」(原文のギリシャ語では「アルセノコイトイ」)は 聖書解釈の歴史において一般的に「女らしい男」と「同性愛行為をする男」として理解されてきました。しかし最近、LGBTQのライフスタイルを弁明しようとする数人の学者たちは、この用語が「小児性」あるいは「男性売春」を意味していて、二人の男性(あるいは女性)が忠実に愛し合っている場合ではないと主張しています。しかし、新約時代のその用語の実例を研究しても、ローマ人への手紙1章24~28節と照らし合わせてみても、その説は成り立ちません。「小児性」や「男性売春」をはっきりと意味する別の言葉(例えば「パイデラスティア」、「カリドゼスタイ」など)をパウロはあえて使用していませんし、アルセノコイトイは明らかにレビ記18章と20章の七十人訳(旧約聖書のギリシャ語訳)の同性愛禁止命令の言葉使いに並行しています。英語になりますが、コリント人への手紙第一6章9節を分析しているDr.Robert Gagnon の記事(特にp.10-11)をお勧めします。(http://robgagnon.net/articles/homosexMarinLoveIsOrientation.pdf


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