Q&A

聖書を用いて同性愛行為を肯定するということですが、そもそも同性愛のクリスチャンはいるのですか。

ゲイ神学について 

この質問に答えるためには、混同しないために、「同性愛」という幅広い言葉を説明する必要があります。そこで、(1)同性の者が恋愛感情を抱く気持ちと(2)同性愛行為の二つに分けて説明します。

まずは(1)恋愛感情を抱く気持ちについてです。気持ちや恋愛感情そのものは誘惑に過ぎず、罪にはなりません。イエス様も悪魔から誘惑されましたが罪を犯しませんでした。しかし、我々は心の中で情欲や恨みやその他の歪んだ思いを犯したり、行動に移したりするならそれは罪になります。

同性に惹かれる恋愛感情を持っていても、それを情欲や性行為に移していないクリスチャンは世界中にいます。同性への魅力を感じて誘惑があっても、その強い気持ちに従わず貞操と純潔を守っている人です。このような人は情緒的には同性愛へ惹かれていても、その誘惑を乗り越えてクリスチャン生活を送る人です。

一方、(2)同性愛行為のほうはどうでしょうか。同じ惹かれる気持ちを持っていて、行動に移し、同性愛の正当化を求めるなら、その人が純粋なクリスチャンであると断言することは極めて難しいです。なぜなら、その人の心に住む聖霊は罪の自覚を与えるお方ですから(ヨハネ16:8)、聖書が罪とする罪を犯し続けることを許すはずがないからです。(Ⅰヨハネ3:6~9)

例えば、教会にある人が来て、「自分はクリスチャンです」と言いながら姦淫や不道徳は罪ではないと言って正当化し、それを聖書の言葉で裏付けようとしたら、その人が本当にクリスチャンであるかどうかが、疑わしいと思われるのと同じです。

結論として、自分は「同性愛のクリスチャンです」と言っている人でも、キリストに従い、聖書の戒めを守ろうとしているなら、純粋なクリスチャンでしょうし、逆に同性愛的行為を肯定したり、行ったりし続けるのなら、聖書の教えを誤解しているか、あるいは教会に忍び込んでいる偽預言者と言えるでしょう。(Ⅱペテロ2:1~2)

しかし、このことに関するもう一つの問題も考える必要があります。私たちがクリスチャンなら、私たちの「アイデンティティー」は、「同性愛者」あるいは「異性愛者」ではなく、「キリスト者」、「神の子ども」です。つまり、私たちの最も本質的な部分は性的指向ではないのです。しかし、「ゲイ神学」は常に性的指向を人の本質として強調する傾向があります。


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