Q&A

ゲイ神学について
Q

「ゲイ神学」とはなんですか。

A

これは英語からの Gay Theologyという言葉の訳です。この場合、「ゲイ」と言っても男性も女性も含めて同性愛全般を指しています。そして、ゲイの「神学」とは同性愛行為を特定の枠の中で肯定する聖書解釈のことです。その「特定の枠の中」とは同性の相手と「結婚」をしていて、二人が愛し合い、一生忠誠を守り、同性愛の乱行などを避ける必要性を主張する神学です。

Q

聖書には「同性愛」という言葉は出てきませんが、それに相当する言葉はなんですか。

A

「同性愛」、英語での”Homosexuality”「ホモセクシュアリティー」という言葉は比較的最近の言葉で、1890年代につくられた語彙です。従って、「同性愛」という言葉は一般的に日本語訳の聖書には出てきませんが、いろいろな表現によって表されています。新改訳聖書は「男娼」や「男色」という言葉を使っています。(申命記23:17、Ⅰ列王記14:24、Ⅰコリント6:9)「男娼」(ギリシャ語の「マラコイ」)を直訳すれば、「柔らかい」という意味ですが、文脈によっては「女らしい男」、あるいは、男性の売春(新約聖書時代のコリントでは特に「神殿男娼」の可能性があります)。男色(ギリシャ語の「アルセノコイタイ」)の直訳は、「男と寝る者」ですが、男性間の性行為を意味しました。これはパウロがレビ記18:22では「女と寝るように、男と寝(る)」ことを禁止している戒めを指して新しく作った言葉だと思われています。創世記19:5では男たちを「知りたい」という表現も使われました。「知る」とは「寝る」と同じ意味で、親密な性的関係を意味します。また、ユダの手紙7節では、「不自然な肉欲」という言葉が使われています。ローマ1章では「自然な用を捨てて」または「男が男と恥ずべきことを行う」などの表現で同性愛関係を表しています。

Q

同性愛行為を禁じる言葉、また罪とする主な聖書の箇所はどれですか。

A

1)レビ記18:22「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」

2)レビ記20:13「男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。」

3)ローマ1:26~27「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

4)Ⅰコリント6:9~10「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」

5)Ⅰテモテ1:9~10「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのために、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」

6)ユダの手紙7節「また、ソドムとゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」(ソドムとゴモラの同性愛事件は創世記18章~19章を参照)

Q

教会の歴史の中で、同性愛が肯定されたり罪とされない時はありましたか。

A

キリスト教会が誕生してから2000年間、さらに旧約聖書時代を創世記までさかのぼっても同性愛は例外なく常に罪とされていました。旧約聖書では、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」とレビ記18:22にあります。また新約聖書には「男娼となる者、男色をする者、・・・はみな神の国を相続することができません。」とⅠコリント6:9~10は教えていますから、同性愛を肯定することは、正当な聖書の教えから離れる重大な問題です。マタイ7:15には、「羊のなりをしてやってくる狼」と警告していますので、今までにない新しい神学や聖書解釈を警戒しなければなりません。

Q

聖書を用いて同性愛行為を肯定するということですが、そもそも同性愛のクリスチャンはいるのですか。

A

この質問に答えるためには、混同しないために、「同性愛」という幅広い言葉を説明する必要があります。そこで、(1)同性の者が恋愛感情を抱く気持ちと(2)同性愛行為の二つに分けて説明します。

まずは(1)恋愛感情を抱く気持ちについてです。気持ちや恋愛感情そのものは誘惑に過ぎず、罪にはなりません。イエス様も悪魔から誘惑されましたが罪を犯しませんでした。しかし、我々は心の中で情欲や恨みやその他の歪んだ思いを犯したり、行動に移したりするならそれは罪になります。

同性に惹かれる恋愛感情を持っていても、それを情欲や性行為に移していないクリスチャンは世界中にいます。同性への魅力を感じて誘惑があっても、その強い気持ちに従わず貞操と純潔を守っている人です。このような人は情緒的には同性愛へ惹かれていても、その誘惑を乗り越えてクリスチャン生活を送る人です。

一方、(2)同性愛行為のほうはどうでしょうか。同じ惹かれる気持ちを持っていて、行動に移し、同性愛の正当化を求めるなら、その人が純粋なクリスチャンであると断言することは極めて難しいです。なぜなら、その人の心に住む聖霊は罪の自覚を与えるお方ですから(ヨハネ16:8)、聖書が罪とする罪を犯し続けることを許すはずがないからです。(Ⅰヨハネ3:6~9)

例えば、教会にある人が来て、「自分はクリスチャンです」と言いながら姦淫や不道徳は罪ではないと言って正当化し、それを聖書の言葉で裏付けようとしたら、その人が本当にクリスチャンであるかどうかが、疑わしいと思われるのと同じです。

結論として、自分は「同性愛のクリスチャンです」と言っている人でも、キリストに従い、聖書の戒めを守ろうとしているなら、純粋なクリスチャンでしょうし、逆に同性愛的行為を肯定したり、行ったりし続けるのなら、聖書の教えを誤解しているか、あるいは教会に忍び込んでいる偽預言者と言えるでしょう。(Ⅱペテロ2:1~2)

しかし、このことに関するもう一つの問題も考える必要があります。私たちがクリスチャンなら、私たちの「アイデンティティー」は、「同性愛者」あるいは「異性愛者」ではなく、「キリスト者」、「神の子ども」です。つまり、私たちの最も本質的な部分は性的指向ではないのです。しかし、「ゲイ神学」は常に性的指向を人の本質として強調する傾向があります。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「ソドムの男たちはギャングレイプ(複数による強姦)をしようとしていたので、その罪に定められました。しかし、愛情のこもった二人の合意関係を神は罪と定めません。」 この主張をどう考えたら良いでしょうか。

A

創世記18:16~19:29に記録しているソドムの裁きの原因は、二人の御使いたちへのギャングレイプだったからという解釈は間違っています。なぜなら、神の御使いたちがソドムに行く前からすでに神はアブラハムに裁くことを宣言されていたからです。すなわち、その街に「その叫びは非常に大きく」、また彼らの罪はきわめて重い(18:20)ので、滅ぼすのにふさわしいその罪が、ふたりの御使いたちが行く前から溢れていたということです。また、ソドムに限らず、御使いたちが行かなかったゴモラも、その周囲の町々もみなそうでした。二人の御使いたちがソドムに行った時、町の男たちがロトの家に押し寄せてからその重い罪がなんだったのかが19章5節で明らかになりました。「ロトに向かって叫んだ。『今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ』」。「知る」とは性的関係を持つという表現で、ここでは同性愛の罪だったということです。ユダの手紙7節がその状況を明確に解説しています。「また、ソドムとゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」ここでは、同性愛関係を「不自然な肉欲」、すなわち、愛情があるかないかの問題ではなく、神が意図して創造した自然に逆らう肉欲であると呼んでいます。同性愛行為そのものは、たとえ二人の間に愛情があり、慰めがあり、二人の一体感をその時に味わうことはできても、それは神が意図されなかった不自然な肉欲と定め、重い罪としています。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「旧約聖書の中には今日クリスチャンが守らないルールがたくさんあります。例えば、豚肉や海老を食べてはならないとか、同じ畑に二種類の種を蒔いてはならないとか、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない、などがあります。しかし、新約聖書において、クリスチャンは律法の束縛から解放され、それらは守らなくても良いとされています。それなら、愛と忠実を表す同性愛関係を禁じていると、どうして断言できるでしょうか。」 この主張をどう考えたら良いでしょうか。

A

この主張に答えるに当たって、旧約聖書の律法の内容を理解していただく必要があります。大きく言って律法には三つの目的があり、律法の内容はその目的に沿って分ける必要があります。

(1)イエス・キリストの贖いの死を予見すること:いけにえ制度や祭司制度はこの目的のために存在しました。

(2)イスラエルの民が神の選民であり、神の真理と栄光を表すために遣わされていること:律法の内の食事、住まい、衣服、農業、社会生活(犯罪に対する処罰も含め)に関係する内容はこの目的の一貫として存在しました。

(3)神の義と聖さ、神の絶対的、かつ、普遍的善悪の基準を明確にすること:十戒を含め、律法の道徳的、倫理的内容はこの目的のために存在しました。

新約聖書の時代に移った時、キリストの十字架での贖いのわざが完成し、律法の上記の(1)の部分が成就し、不要になりました。さらに、異邦人を中心とした教会の時代が始まったので、選民としてのイスラエル民族特有の規定(2)も不要になりました。しかし、神の義と聖さを表す善悪の基準(3)は変わらず、それはイエス・キリストも使徒たちも再確認していますので、律法の道徳や倫理は現在に至って変わっていないと認識しなければなりません。
従って、旧約聖書と新約聖書両方に変わらない律法が多くあります。例えば、「姦淫をしてはならない」という戒めは旧約聖書の出エジプト記20:14にありますが、イエスもマタイ5:27で同じ戒めを強調されました。また、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。」という戒めは旧約聖書のレビ記18:22にありますが、パウロはローマ1:26~27やⅠコリント6:9~10で、その戒めを守ることの重要性について語りました。この他にも不品行、人殺し、嘘等、多くの道徳的律法は新約聖書の福音と恵みの時代になっても変わっていません。ですから、旧約聖書の律法をもう守らなくても良いからと言って、新約聖書で明らかに禁じていることを許して肯定するのは、自分の都合に合わせていることになり、正しい聖書解釈ではありません。同性愛を禁じる律法は旧約聖書の時代も今も変わりなく守る必要があるのです。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「もしも、同性愛者が結婚できないとするなら、一生独身生活に閉じ込められて孤独な生活を押し付けることではないでしょうか。しかし、神様は「人が、ひとりでいるのは良くない。」(創世記2:18)と言われました。だとするなら神様は同性の人だからと言って結婚を禁じるほど残酷ではないと思う。」 この主張をどう捉えたら良いのでしょうか。

A

「人が、ひとりでいるのは良くない」と言う神様のアダムに対する言葉ですが、神様は人を造られた時に、御自身のかたちに「男と女」とに創造されたので、もう一人の「男」ではなく、「女」がいないことは良くない、という意味でした。神様はアダムのためにもう一人の男性を造られたのではなく、女性です。神様の意図された結婚における男女の性関係は、一心同体となる絆をつくり、究極的には花婿(夫であるキリスト)と、花嫁(妻である教会)を表すものでした。男性同士や女性同士の性的関係はこのひな形から明らかに外れていますので禁じられています。

一方、男性同士や女性同士が深い友情関係を持てないわけではありません。独身の人も男性や女性と自由に交わりを持つことができますし、孤独だとは言えません。結婚しなくても親しい友人を作ることによって互いに助け合い、深い交わりと絆を持つことができます。もしも、性的満足に絞って性的に満たされないことは「孤独」と主張するなら、それは極端にセックスに捕われている考え方です。パウロもイエス様も独身でした。今日も意図的に結婚しない人、あるいは様々な理由で結婚できない人も多くいます。中には結婚ができればしたいと願っている人もたくさんいますが、できないままでも心の満たされる豊かな生活を送っている人も大勢います。聖書の中では、結婚しないことは「良くない」とは教えていません。逆に、結婚しないで独身であることは、神様のために全てを捧げて仕えることができるので、良いものとして表されています。(Ⅰコリント7:8、32~35)

また、多くの同性愛者たちは信仰を持ってから、霊的な成長やカウンセリングによって同性愛的指向が減少し、異性に対しより魅力を感じるようになることも多くあります。ですから、「一生独身生活に閉じ込められて孤独な生活を押し付けられる」とは限りません。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「聖書時代と今は違います。聖書の時代では同性愛は貪欲と情欲の表現で制約のない無差別の乱交でした。しかし、今日では同性愛の正しい表現を発見しています。当時は性的指向の理解もなく、一人が一人と愛し合って一生忠実を守る同性愛関係はありませんでした。パウロが禁じているのは乱交であって、現在の健全な同性愛関係を禁じているのではありません。」 この主張をどう考えれば良いのでしょうか。

A

さて、本当にそうでしょうか。「一人が一人と愛し合って一生忠実を守る」と一見良いものに聞こえますが、聖書は、同性愛に条件をつけていません。ある特定の同性愛関係をよしとして、それ以外のものを禁じているような事はどこにも出てきません。同性愛行為全般を禁じています。愛があるとか無いとか、忠実忠誠?を守るとか守らないとか、条件をつけて例外にしていません。聖書は男女間の「自然の用」を肯定して、それ以外のものは「不自然」(ローマ1:26~27)とされています。姦淫の罪も同じことが言えます。愛し合っていれば姦淫は許されるということはないのです。

また、新約聖書時代は今の時代と実は変わりなく同じです。古代ギリシャとローマの時代にも愛し合う同性愛関係は存在していました。プラトン著作「饗宴」(紀元前375年)の中には異性愛と同性愛関係について書かれています。皇帝ネロはパウロと同時代でしたが、二人の男性と結婚しました。当時も一生の同性愛パートナー関係は、決して珍しいものではありませんでした。古代の同性愛についての資料をまとめた本「ギリシャとローマにおける同性愛」(Homosexuality in Greece and Rome)の著者トマス・ハバード氏は結論として、今日に見る同性愛の様々な形は、全て古代にも存在していた、と言われます。

さらに、同性愛歴史学者ルイ・クロムトン氏(自身もノンクリスチャン同性愛者)は「同性愛と文明」(Homosexuality and Civilization)という巨大な研究著作の中で、聖書とパウロの書簡を客観的に見て、パウロも当時のユダヤ人著者も同性愛については厳しい立場をとり、例外なく禁じている、と述べています。

従って、パウロの時代も今の時代も同じで、近代の「正しい同性愛関係の発見」とは、事実に基づいていません。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「旧約聖書では宦官(性器を切除した男性)は神の前で主の集会に加わることが禁じられていましたが、新約聖書では、エチオピアの宦官は神の国に歓迎されています。それと同じように今は規則が変わり、同性愛者も恵みによって受け入れられるのです。」 この主張は正しいでしょうか。

A

この理屈は福音と恵みの意味を誤解しています。福音は恵みによって確かにすべての人を受け入れます。男も女も、ユダヤ人もギリシャ人も、自由人も奴隷も、皆キリストにあって同じです。(ガラテヤ3:28) 同性愛者も人間としては同じですが、聖書はその行為を正当化する訳ではありません。宦官は宦官であったこと自体が罪ではありませんでしたが、同性愛者の行為は罪です。旧約聖書も新約聖書もどちらも罪としている性的行為、道徳的罪を肯定して受け入れて許すとは教えていません。かえって、その逆で、悔い改めることを求めています。以前は同性愛行為をしていましたが、今はその罪を捨てて、清められ、救われたというのが、福音と恵みなのです。Ⅰコリント6:9~11がその変化を表しています。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません・・・姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者・・・はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

恵みとは、罪人を罪の中に置いたままにしません。その中から救い出すものです。以前は同性愛行為をしていた者を同性愛の罪から救い出し、洗い、聖なる者とし、義と認めて神の国に歓迎するのが福音です。

Q

ゲイ神学側からの主張: 「イエス・キリストは同性愛について一言も言っていません。そうであれば、クリスチャンも同じように問題にしないことがより「キリストらしい」と言えないでしょうか」 この主張は正しいでしょうか。

A

確かにイエス・キリストは男色とか男娼について何も言っていません。しかしまた、近親相姦や子どもの虐待について教えていないことも事実です。だからと言って、イエスはそれらを許すと言ってはいません。まずイエス・キリストは主にユダヤ人に対し語っていたので、旧約聖書の戒めを前提に、そして共通の理解があるものとして扱っていたので、あえて繰り返す必要はありませんでした。例えば、同性愛について直接教えませんでしたが、それを禁じる戒めのある、レビ記から引用されたので(レビ24:20、マタイ5:38)レビ記を神の言葉としていたと言えます。

また、同性婚については教えていなくても、結婚と離婚については教え、結婚の原点を強調されました。イエスの言葉です。「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」(マルコ10:6~8) ここでイエスは、人が男と女に造られて、男女の結婚が神の創造と意図された目的であることを強調しています。また、男女が一体になることも自然で、子孫を残すために必要であることも前提にしています。従って、直接同性愛に触れていなくても、(結婚は男女の絆であることを前提にしているので)禁じられた行為を正しいと宣言して、結婚の定義を変える解釈の余地はありません。

また、イエスは道徳的な律法について、緩やかにしたと言うよりは、より厳しく戒めたと言えます。マタイ5:21~28で、人殺しについては、実際に人を殺さなくても、心の中で憎むなら、人を殺したのと同様であると言われました。また、姦淫については、実際に行動に移さなくても、心の中で情欲を抱いたなら、姦淫を犯したのと同様であると言われました。このように、さらに厳しく基準を高くしたなら、モーセの律法が禁じる同性愛の罪を、厳しく、心の中で犯す罪としても注意したことでしょう。

Q

ゲイ神学では、同性でも正当な結婚であると主張しますが、聖書の教えには結婚は必ず男女間でなければならないと断言していますか。

A

これは結婚の目的と結婚の意味そのものに関する大切な質問です。

創世記1章と2章を見る時、神様が設計した結婚とは何であったのか、その定義が分かります。

神が意図されたのは、創造した男と女がそれぞれ神のかたちに創造され、ふたりが一つに結ばれることでした。元々は男の中に女があり一つでした。次に、神は女を男から取り出し、ふたりになって、ふたりが結婚することによって再び一つになりました。神様は三位一体の交わりを原型に、夫婦にも一心同体の交わりを味わえるようにしてくださいました。また、驚くことに、新約聖書のエペソの5章では、夫婦関係をキリストと教会の関係に重ね合わせました。キリストが夫であり、教会が妻であるのです。男女の結婚関係はこのように聖なる神にも結びつけられたものでありますから、この原型から離れた同性の関係は聖書が定義とする結婚とはかけ離れています。

また、子孫についてですが、今日の避妊をする夫婦の多い時代と違って、聖書の世界では結婚の一つの大きな目的は、子どもを産み育てることでした。神様は「生めよ。増えよ。」と言われたので、当時のユダヤ人やクリスチャンの中では、同性の正当な結婚はありえなかったのです。結婚はいつも男女間で、それ以外の関係は結婚とされませんでしたから、あえて聖書の中で結婚は男女間のみと教える必要もありませんでした。

まとめ

1. 聖書を解釈するときには、21世紀の世界観を聖書に押し付けるのではなく、聖書が書かれた本来の意図と文脈に沿って、理解するように注意する必要があります。ゲイ神学は、神の真理に基づいて形成されているのではなく、今日の新しい道徳基準を聖書に押し付けようとします。

2. 聖書の道徳は、私たちを愛する父なる神によって定められたものです。神様の基準や命令は、私たちを抑圧したり、苦しめたり、自由を制限したりするためのものではありません。むしろ、神の愛と知恵に基づいて、個人としても社会としても、私たちの最善と徳になることを定めているのです。ですから、神は同性愛の行動が私たちの徳にならないことを知っていて、それを禁じます。神は、私たちの創造主であるがゆえに、私たちが自分自身を知るよりも、よく知っておられます。

3. 同性愛の魅力には深く複雑な原因があり、変化することが困難な場合が多いのですが、それでも多くの男女が、あるときはカウンセリングによって、あるときは仲間のクリスチャンのサポートによって、またあるときは神の奇跡的な力によって、同性愛の行動や欲望からの解放を経験しています。罪や心理的状態や弱さの中にあっても、変化と成長は神の恵みによって常に可能であり、私たちは皆、同性愛者の欲求やジェンダーの混乱を含め、主がなされる癒しと変化を期待する必要があります。

4. 教会は何世紀にもわたって、同性愛行為を「許されない罪」として扱い、同性愛的性欲に悩む人々を差別してきたことも事実です。クリスチャンは、このような愛のない裁く態度や差別行動を悔い改め、私たち全員が性的に ” 壊れて ” おり、” 神の栄光を受けられない ” 存在であることを謙虚に認識する必要があります。私たちは他人を指差す立場にはありませんし、同性愛者はキリストの血によって贖われるには、手の届かない人ではないのです。従って、教会は同性愛者を除外するところではなく、悩みを抱えて癒しと解放を求める同性愛者を歓迎する「避け所」であるべきです。

「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所」イザヤ書25:4

聖書を解釈することは…

ジグソーパズルに取り組むようなものです。聖書は論文や取扱説明書のようにトピックを章ごとに綺麗に並べてはいません。聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で、聖書の断片を一つ一つ吟味し、似ているピースと組み合わせていくことによって少しずつ全体像が見えてくるのです。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのまま学び、受け取る姿勢が重要です。懐疑論者や聖書の反対者たちは、聖書の節を文学的、歴史的、神学的な文脈から取り外して、聖書の長年の理解や聖書自体の信頼性を貶めるのです。しかし、ジグソーパズルのピースのように、聖書のさまざまな記述や教えは、その直接的な文脈やより広い文脈の中で意味をなすように設計されているのです。

例えば、批評家は旧約聖書の様々な律法、例えば貝を食べることの禁止、姦通あるいは親に無礼なことをした場合の死刑を挙げて、旧約の律法は現代には無関係であるとか、イエスの教えは旧約の律法に対立するものであったと証明しようとします。

しかし、上記のような解釈の問題に関しては、文脈から正しく理解すると、旧約聖書の律法は3つのカテゴリーから構成されていることが明らかです。

(1)儀式律法、これは将来、人類の罪のために死んでくださるイエス・キリストの身代わりの贖罪を指し示すものであって、このカテゴリーの律法は、キリストの死と復活によって成就され、今ではもう必要ないのです。

(2)神権国家イスラエルの特有な民法は、イスラエルが神の民であり、神の性格と真理を世界に示すために選ばれたことを示すためのものでした。様々な犯罪に対する罰則、食事などの健康に関する規則、イスラエルの人々の社会的正義に関する規則などが含まれます。このカテゴリーも上記(1)と同様に、新約聖書に記されているように、イスラエルの神権政治が崩壊し、異邦人の時代が到来したことで終了しました。そうとは言え、それらの法律は神の罪に対する視点を反映していますし、神の正義に関する感覚も反映していますので、教育的価値は今でもあります。

(3)「道徳律」とも呼ばれ、神の普遍的で絶対的な善悪の基準を定めたもので、どの時代でも全人類に対する神の不変のご性質を反映しています。イエスはこれらの法則を肯定し、決してこれらを覆すために来たのではないと宣言されました。また、全人類が神の善悪の基準に背いたとして、神の裁きの前に立たされることを教えられました。

この3つをどのように区別するのでしょうか。

まず、ほとんどの場合、文学的文脈から明らかにすることができます。例えば、カナン人や他の非イスラエル人がその罪のために罰せられるとき、それは(3)カテゴリーの律法が彼らによって破られたことを明確に示しているのです。第二に、新約聖書の箇所、特に異邦人に向けられた箇所で同じ命令が繰り返される場合、そして特に旧約聖書の箇所の類語や似たような表現をしている場合、これらが普遍的かつ絶対的なものであることを意図していることは明らかである。例えば、旧約聖書では、神によって定められた結婚以外の性行為は禁止されています。新約聖書でも、イエスやパウロ、その他の新約聖書作家によって、明確に禁止されています。

このような解釈の原則は「聖書解釈学」と呼ばれる学問分野であり、聖書を誠実に解釈することに真剣に関心を持つ人なら、勉強する価値のある分野です。

しかし、上記にも書いた通り、聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で、聖書の断片を一つ一つ吟味する必要があります。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのままにする訓練、勉強、謙遜さが必要です。そのような人たちにとって、聖書は新鮮で、魂を再生させ、方向性を示す内容に満ちているのです。

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