Q&A

ジェンダーと性について
Q

ジェンダーや性は、なぜ今大きな社会問題になっているのでしょうか。

A

私たちの社会において、以前なら想像もできなかったような考え方、選択、そしてライフスタイルが急激に受け入れられ、採用され、推進されています。それは、どのようなことでしょうか。

例えば:

◇人々のジェンダー意識や性的指向は持って生まれた身体的性別に優先し、身体ではなく、本人が感じるジェンダーが本当のその人のアイデンティティーであるという考え。
◇人々は自分の持って生まれた身体に違和感があれば、たとえ未成年であっても、自由に「性転換」の手術やその手前のホルモン治療をする権利を持つべきであるという考え。
◇人々が性行為をしたければ、結婚の枠組みに縛られる必要はないし、異性の人とだけ性行為をすることにも縛られる必要はない。状況によっては、大人が子どもと性行為をすることも認められるべきであるという考え。
◇結婚は一人の男性と一人の女性の間だけのものではなく、同性の者同士でも許されるべきであり、2人以上のどのような男女の組み合わせでも「結婚」とみなすことも可能かもしれないという考え。

しかもこのような考え方やライフスタイルは「人権」であると主張され、それに同意しない人々は「人々の人間性を否定している」、「差別をしている」、「精神的虐待をしている」とまで批判されます。また、この考え方やライフスタイルに入る者は温かく迎えられますが、脱出しようとする人々は「裏切り者」として批判されます。しかも、脱出したい人々がカウンセリングを求めることも、彼らにカウンセリングを与えることも反対されます。上記の考え方はひと言で言えば「ジェンダー・イデオロギー」と言います。そして、ジェンダー・イデオロギーを信じる人々、それに近い考え方を持つ人々は、LGBTQの人たちの間にも、そうでない人々の間にも増えています。

聖書を神のことばであると信じるクリスチャンにとって、このような思想的、文化的流れをどう思ったら良いのでしょうか。また、このようなジェンダーの意識とライフスタイルはクリスチャンにふさわしいのでしょうか。自分を「クリスチャン」と呼んでいる一部の人々は、このような世の中の流れに完全に同意し、教会の始まりから2000年も受け継がれてきた聖書の解釈と性倫理を否定しています。一方、LGBTQの人たちが教会に来ることを嫌がり、ジェンダーや性の問題を無視したがるクリスチャンや教会もあります。他のクリスチャンたちは平和を保つことを優先し、「とにかく、お互い寛容でありましょう。受け入れ合いましょう」と呼びかけ、何が聖書的真理であるかという課題を避けます。さらに他のクリスチャンは聖書のジェンダーや性倫理や結婚についての教えを重視し、これが妥協してはならない基本的真理として受け止めます。それと同時に、ジェンダーや性の混乱で悩んでいる人々の人間性を尊重し、神の恵みに与る「隣人」として愛をもって関わっていくことを強調します。このような状況の中、多くの熱心なクリスチャンたちは混乱し、誰を信じたら良いのか、どんな見解を持つべきか、身近にいるLGBTQの人たちにどう接したら良いのか、で深く悩んでいます。

NBUSでは、上記の問題がこの数年間あまりに押し寄せて来ているため、危機感を持ち、様々な形で分かりやすく、信頼性のある情報を提供しようとしています。私たちが重視する聖書的視点に激しく反対する人々もいますし、このところ多くの批判や攻撃を受けていますが、神に頼りながら、愛をもって真理を語る努力を続けようとしています。この働きのための皆様の祈りと支援に心から感謝します。

Q

なぜジェンダー意識の混乱が生じるのでしょうか。なぜLGBTQになるのでしょうか。

A

2016年にこれまでの様々なジェンダー関係の研究を総合的に分析したジョンズホプキンズ大学は、「性的指向が先天的であるという論説には科学的証拠はない」との調査結果を発表しました(https://apologeticspress.org/homosexuality-society-science-and-psychology-part-2-5909/)。

続いて、2019年の夏にハーバード大学とマセチューセツ工科大学で、40万人以上を対象としたジェンダー意識・性的指向に関する遺伝的影響を調べた共同研究の結果が公表されましたが、プロジェクトチームのリーダーだった Dr. Andrea Ganna は、「遺伝的要因から人のセクシュアリティーを知ることは不可能だ」と断言し、ジェンダー意識や性的指向に対する遺伝的影響は全体の3分の1以下で、ほとんどが後天的要因であると認めました(https://www.thepublicdiscourse.com/2019/09/57342/)。

実は、このような研究は20世紀半ばから心理学者たちが重ね続けてきていますが、最もジェンダーの混乱やLGBTQの傾向に影響を及ぼすのは、幼児期の性的虐待やその他の虐待、同性の親との愛着・執着の不足、親の間の力関係のアンバランス、目立った親の結婚の不一致、片親不在の状態、ポルノやその他の性的刺激への接触などであることは繰り返し立証されています。つまり、子どもが育った家庭環境やその他の身近な環境で起きた精神的トラウマがポイントであるということです。幼児期だけでなく、思春期の体験、ピア・プレッシャー、あるいは自分の決断でLGBTQになることも珍しくありません。驚くことに、このような混乱を経験する子どもたちの80〜90%は自然に治り、正常なセクシュアリティーへと成長します。だから、人から「君はLGBTQではないか」と言われたりすることは、逆に問題を悪化し、回復を困難にしますので、避けなければなりません。でも残念ながら、子どもをLGBTQの意識とライフスタイルへ押すのが現在の傾向でありますし、そのような影響を受ければ受けるほど、長くその中にいればいるほど、抜けることが困難になります。

下記の図を参考にしていただきたいのですが、私たちの「性」というものは大きく言って4つの要因から成り立っています。① 持って生まれた身体 ② 約18か月から4歳の間に確立されるジェンダー意識 ③ 性的指向(どのような相手に対し性欲を感じ、好きになるか)、そして④ 性行為、性体験。通常ならば、持って生まれた身体の自然的本能が幼児期の家庭環境などと混合し、身体的性と同一のジェンダー意識を確立させます。そしてジェンダー意識を根拠に思春期の時から性的指向が明確になり、意識の混乱がなければ、普通は異性の相手に魅力や性欲を感じるようになるのです。その結果、後に(願いとしては結婚後に)適切な性行為をする訳です。ところが、上記で説明した幼児期のトラウマやその他の要因のために、ある子どもはジェンダー意識が確立せず、混乱が生じます。すると、性的指向も混乱してくるので、同性の人に魅力や性欲を感じ、同性の人と性行為をしたり、両方と性行為をしたりしてしまうことにより、混乱がより深くなります。すると長期的にLGBTQになってしまうことが多いのです。

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また、最近はROGD (Rapid Onset Gender Disorder) と呼ばれる現象も起きています。これは、上記で説明した過程と違い、すでに何かの深い悩みや人格障害を持っている10代の女性に多いのですが、その精神的な問題のために深い違和感や苦しみを持っている場合があり、ネットやピアグループから自分の悩みの源は身体とジェンダー意識との衝突だと聞かされ、解決は性転換だと洗脳されてしまう場合です。この現象を注目したのは、米国ブライン大学のDr. Lisa Littman でした。彼女は、欧米のジェンダー・クリニックに問い合わせてきた10代の女性が10年間で4,500%上昇していることを調べ始め、これを “Social Contagion” (「社会的伝染病」)と呼びました(https://littmanresearch.com)。子どもや若者は、周りの人々の意見やプレッシャーに影響されやすく、現在の社会的影響は若者を安定したジェンダー感へと導かない傾向にあるのです。

結論として、ジェンダーの混乱は先天的でも生まれつきのものでもなく、育った環境、幼児期や思春期のトラウマや体験、周りからの影響、自分の選択の積み重ねから成り立っているということです。ですから、家庭環境や育成環境の重要性、周りからの健全な影響の大切さ、そして若い時の選択の積み重ねがどれほど大事かということを私たちは知らされます。

Q

ジェンダーと性の問題と聖書が語っている「罪」との関係は何ですか。

A

人々がジェンダーの混乱やLGBTQの生き方に陥ってしまう理由にはもう一つあります。それはこの世での罪の影響です。聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」 (ロマ3・23)と書かれていますが、人間一人一人が持って生まれた罪ゆえに、大人は子どもを虐待したり、ネグレクトをしたり、家庭内暴力が起きたり、依存症があったり、結婚に失敗したため離婚をしてしまったりします。そのため、男女の力関係の争いもあり、人々を利用したり、支配したりするのです。上記にもありますように、多くの場合、ジェンダーの混乱の原因は他の人々から受けた被害です。でもそれだけではありません。私たちの中にも歪んだ性やジェンダーのあり方へ偏ってしまう傾向があり、そのため誠実に信念を守らず、真理を尊重せずに、思いのまま、感情のままに生きてしまうことが多くあるのです。そのため、性やジェンダーのあり方が、私たちを創造してくださった神様の理想から遠く離れてしまいます。そのような意味では、私たちのすべては性やジェンダーに関しては「壊れた器」なのです。

しかし、神が私たちの創造者であるからこそ、私たちにとって何が最善なのかを神ご自身から伺う必要があります。聖書は誤りの無い神のことばであり、そこに示されている性やジェンダーの原則に従う時、私たちは最も幸せであり、心が満たされるのです。

Q

ジェンダーと性の問題と「世界観」とはどんな関係にありますか。

A

この問題を複雑にしている要素の一つは、人々の世界観です。世界観とは、人々の世界や人生を見る「レンズ」のようなものです。つまり、価値観、物事の判断の仕方、人間関係のあり方、社会をどう理解するかなどをすべて網羅します。現在の先進国で主流となっている世界観は「ポストモダニズム」です。ポストモダニズムは客観的事実や真理を否定し、主観的な体験を重要視します。言ってみれば、人々が感じることが「その人の真理」とされることです。

もう一つの特徴は「バイナリー思考の否定」です。バイナリー思考とは、物事に関するはっきりした区別をもった見解です。例えば、白か黒か、良いか悪いか、真理か偽りか、男か女か、などです。このような区別を否定することはどうでしょうか。倫理や道徳に当てはめていきますと、普遍的かつ絶対的な善悪の基準は無いと考えるのが、ポストモダンの特徴でもあり、ジェンダーに関しても、男女はそれぞれはっきりした区別を持った別存在であることも否定し、「スペクトラム」にあると主張します。ですから、このような世界観に基づいているジェンダー・イデオロギーの人々は、一人一人、いわゆる「男性」から「女性」の幅のどこかに当てはまるかもしれないが、どちらでもないことも多い、と主張するわけです。ジェンダー・イデオロギーとポストモダニズムは思想的にとても近い存在なので、ポストモダンの観点を持っている人々や社会は、ジェンダー・イデオロギーを容易に受け入れるわけです。どちらも神が人々を男か女かに創造されたこと、普遍的な真理、絶対的な善悪の基準などを否定し、特に性やジェンダーに関しての善悪の基準を認めません。このような考え方は、まさにQ3.の「人類の歪み」の表れで、その歪みが思想に反映していることの一例です。

Q

聖書はジェンダーと性に関してどのように教えているのでしょうか。

A

上記(1)でジェンダー・イデオロギーの考え方を紹介しましたが、もう一度その幾つかの主張を復習しましょう:
◇人類は、男性と女性とに分かれているのではなく、一人一人が「男らしさ」から「女らしさ」まで広がるスペクトラムのどこかに当てはまること。
◇人々は、自分のジェンダー意識に関しては、もって生まれた身体に縛られる必要がなく、自由にそのあり方や表現を自己決定し、変える権利があること。
◇結婚は、一人の男性と一人の女性との関係に限るものとして考える必要はないということ。
◇性行為は、創造者なる神が定めた結婚の枠組みだけのものと考える必要もないということ。

聖書の初めの章に次のような言葉があります。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創1・26~27)。この個所から教えられることが三つあります。
1)「われわれ」という言葉が2回繰り返されていますが、三位一体の神が人間を創造することについて語り合っていることがわかります。
2)神が人間を三位一体の似姿に創造することを決定したことがわかります。
3)人間が男と女という二つの性別に創造されたことによって、三位一体の神の性質を表していることがわかります。

続いて創世記2章には、男性と女性との結婚が次の言葉で紹介されています:
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創2・24)。この言葉は神が定めた結婚のあり方として、イエス・キリストによって新約聖書の福音書で再度引用され、パウロによっても引用されています。

さらに新約聖書には、次の文章があります:
「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのおとにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペ5・23~25)

十戒の第7戒は「姦淫してはならない」という戒めですが、これは性行為についての聖書的教えのすべてを一言にまとめている命令です。使徒パウロは新約聖書で次のように同じ戒めを繰り返しています:
「不品行(あるいは「淫らな行い」)を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリ6・18~20)

上記の聖書個所から、神がすべての人々を男性か女性に創造され、結婚を男性と女性との組み合わせとしてお定めになったことが明らかです。しかも、創世記1章では、それが三位一体を反映する趣旨で定められたこと、エペソ人への手紙5章22~25節では、キリストと教会との関係を反映する目的で定められたことが述べられています。そして十戒、また旧約聖書と新約聖書は、神が定めた結婚の枠組み以外の性行為を禁じています。この聖書的教えはジェンダー・イデオロギーの主張と正反対ですので、聖書を神のことばとして受け止めるクリスチャンなら、上記のジェンダー・イデオロギーの主張を受け入れることはできないのです。

Q

旧約聖書の律法の教えは何でしょうか。

A

旧約聖書のモーセ五書に、神がイスラエルの民に与えた「律法」が含まれています。この律法に関する聖書個所を解釈する時に念頭に置かなければならないことがあります。聖書は論文や取扱説明書のようにトピックを章ごとに綺麗に並べてはいません。聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で聖書の断片を一つ一つ吟味し、似ているピースと組み合わせていくことによって少しずつ全体像が見えてくるのです。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのまま学び、受け取る姿勢が重要です。懐疑論者や聖書の反対者たちは、聖書の節を文学的、歴史的、神学的な文脈から取り外して、聖書の長年の理解や聖書自体の信頼性を貶めるのです。しかし、ジグソーパズルのピースのように、聖書の様々な記述や教えは、その直接的な文脈や広い文脈の中で意味をなすように設計されているのです。

旧約聖書を上記のように学んでいくうちに気がつくことは、律法には3項目があることです:
1)儀式的律法ーこれはイスラエル人の礼拝や宗教行事に関係することで、いけにえや捧げ物、祭司職のあり方、礼拝の場所(王国時代までは「幕屋」、その後は「宮」)などを含む内容です。ヘブル人への手紙を読むと、儀式的律法はキリストの贖いのわざを反映し、それを予告するようなものであることが説明されています。ですから、キリストが十字架に架けられ、復活し、昇天したことによって、これらすべてが成就され、もはや現在において続ける意味がないと言うことになります。

2)国法としての律法ーイスラエルは神の真理と救いを国々に表す大切な使命を与えられていました。次のように書いてあります。「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、そのように行うためである。これを守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」(申4・5~8)

この個所にあるように、律法の一部は「神の選民」としての役目を果たすためのものでした。それは、例えばカニや豚肉を食べないこと(健康に関連する戒め)、相続のルール(社会的秩序に関連する戒め)、死刑に値する犯罪(正義に関する戒め)などのような内容です。そしてパウロが明らかにしたように、現在の「異邦人の時代」には参考になりますが、直接クリスチャンが守るべき内容ではないのです。
3)普遍的モラルーこの項目はすべての国民に当てはまる規則で、十戒がその例です。では、普遍的モラルに当てはまるかどうかをどのように判断するのでしょうか。たいてい文脈で分かりますが、具体的には、とても強い表現が使われている場合、イスラエルだけでなく他の国民にも向けられた場合、あるいは新約聖書で同じ内容が繰り返された場合には、普遍的なモラルだと分かります。

すると、この言葉は上記のどれに当てはまるのでしょうか:

「女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」(申22・5)あるいは、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。これは道ならぬことである。あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。」(レビ18・22~25)。

まず、「あなたの神、主は忌みきらわれる」という、とても強い表現が使われています。
次に、カナン人がこのようなことをしたことで神に裁かれていることが述べられています。つまり、これらはイスラエル人だけの問題ではないということです。
そして、新約聖書には似たような内容が繰り返されています。その一つの例はローマ人への手紙1章26、27節です。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

つまり、この内容は神が定めた普遍的モラルであることが分かります。その背後にある原則は旧約聖書にも新約聖書にも繰り返し強調されていることですが、人間同士の性的関係は結婚している男性と女性との間だけにあるべきものということです。姦淫、近親の性関係、レイプ、動物との性、売春行為、同性愛行為などはすべてこの原則に反し、聖書はそれらをすべて「罪」と呼んでいます。もう一つの聖書的原則は、男性が女性らしく振舞うことも、女性が男性らしく振る舞うことも、神は喜ばれないということです。いわゆる「性転換」はまさにこの原則に反する行為ですし、男性が女装したり、女性が男として生きたりすることも、この普遍的モラルに反することです。結婚においても、教会においても、その他の分野においても、男性と女性のあり方には神が定めた違いがあることを聖書は教えています。そして、神の創造の趣旨と善悪の基準を守ることによって、人類は最も祝福されることは明らかです。

Q

なぜジェンダーの問題が重要なのでしょうか。

A

ある人々は、ジェンダーや性を問題にすることに疑問を感じます。「一人一人にその人の生き方があるし、クリスチャンはすべての人々を愛し、寛容であるべきではないのでしょうか」という意見を時々聞きます。さらに、「他の人の考え方やライフスタイルを罪と呼ぶことは差別で、人権の侵害だ」とまで断言する人も、珍しくありません。しかし、ジェンダーと性の問題はクリスチャンにとってマイナー的な教えに関する議論ではなく、まさに救いに関する問題です。コリント人への手紙第一6章9~11節に次のように書かれています:「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中にある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

この個所の趣旨は、悔い改めずに罪の中にとどまる者は「神の国を相続することができません」ということです。内面的にジェンダーや性についての混乱を覚えることは罪ではありません。しかし、上記にあるように、「不品行」(他の聖書の訳は「淫らな行い」、結婚外の性行為)、「姦淫」、*「男娼」( 同性関係の受け身役の者、自分を女らしくする男性、トランスジェンダーらしきあり方、と言う意味を含んだ少し曖昧な言葉)、*「男色」(現代用語では同性愛のこと)のような行為は罪であり、悔い改めを要します。そうとは言え、悔い改めるまでにより深い理解と霊的敏感さに到達するプロセスが必要かもしれませんし、悔い改めてからもその罪を克服することが困難なことは言うまでもありません。いずれにせよ、ここでパウロがコリントの教会に関して問題にしている大きなことは、「私たちはこのままでいいんだ! 悔い改める必要はない!」と主張しながら罪の中にとどまる「クリスチャン」です。

さらに多くの人々は、聖書的な「愛」に関して誤解しています。愛は人々の思いのままにしてあげること、何でもその人がすることを肯定することではありません。真の愛は、相手にとって最善のことをしてあげること、最善を求める関わり方をすることです。神の愛もそうです。ですから、神は私たちが悪から離れ、正しい生き方ができるよう、子どものように愛し、懲らしめると書かれています(ヘブル人への手紙12・4~13を参照)。罪の中にとどまることを容認することは、真の愛ではありません。同じように、破壊的な生き方から離れるようアピールしないことも真の愛ではありません。神の愛と義を人々に伝える時、誤解され、反対されますが、それはクリスチャンの使命であるので、勇気をもってするよう決断しなければなりません。

罪にとどまることに問題がないと教えるクリスチャンの牧師やリーダーに関しても、聖書は厳しい言葉で忠告しています。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マコ9・42)性的罪やジェンダー混乱のただ中におられる方々に「悔い改める必要はありませんよ。神はあなたをこのようにお造りになったのですから。これからもそのままでいいんですよ」と導くなら、救いに関係することでは基本的に異端的視点です。しかし残念ながら、あるクリスチャンの牧師や指導者や教会は聖書の権威を否定したり、不自然で誠実ではない聖書の解釈をしたりしようとするので、多くの人々はこの問題に関してなおさら混乱を覚えます。でも、このような問題は旧約聖書の時代から現代まで続いていることで、クリスチャンはどのような声や視点に従うのか、影響されるのかに注意が必要です。(エレ14・14、マタ7・15~17、使20・28~30、Ⅱペテ2・1~3を参照)

*「男娼」(原文のギリシャ語では、「マラコス」)、「男色」(原文のギリシャ語では「アルセノコイトイ」)は 聖書解釈の歴史において一般的に「女らしい男」と「同性愛行為をする男」として理解されてきました。しかし最近、LGBTQのライフスタイルを弁明しようとする数人の学者たちは、この用語が「小児性」あるいは「男性売春」を意味していて、二人の男性(あるいは女性)が忠実に愛し合っている場合ではないと主張しています。しかし、新約時代のその用語の実例を研究しても、ローマ人への手紙1章24~28節と照らし合わせてみても、その説は成り立ちません。「小児性」や「男性売春」をはっきりと意味する別の言葉(例えば「パイデラスティア」、「カリドゼスタイ」など)をパウロはあえて使用していませんし、アルセノコイトイは明らかにレビ記18章と20章の七十人訳(旧約聖書のギリシャ語訳)の同性愛禁止命令の言葉使いに並行しています。英語になりますが、コリント人への手紙第一6章9節を分析しているDr.Robert Gagnon の記事(特にp.10-11)をお勧めします。(http://robgagnon.net/articles/homosexMarinLoveIsOrientation.pdf

Q

歪んだ性行為やジェンダー意識の解決は何でしょうか。

A

「解決」を提案するに当たって、解決しようとしている「問題」が何かを明確にしましょう。それは、聖書で私たちの創造者である神様が示しているジェンダーと性のあり方と違った意識、指向、行為に陥ることです。では、「解決」とは何を意味するのでしょうか。まず、「癒し」です。上記でも説明しましたように、ジェンダーや性の混乱や歪みの根源は、多くの場合、幼児期や思春期などに受けた傷やトラウマです。また、この混乱や歪みにも病的な面があるため、当事者はしばしば内面的な葛藤、人間関係のトラブル、自尊心の損失、うつ病などに悩まされることがあります。そして何よりも、心の内の痛み、虚しさ、迷いがよくあります。そのようなことすべてからの「癒し」を願う方々は、少なくありません。

次に「回復」を意味します。このような混乱や歪みは、神様の理想から遠く離れてしまった状態ですので、平安や満足や幸福が得られませんし、本来のジェンダーや性のあり方が経験できないことで苦しいと当事者はよく呟きます。ですから多かれ少なかれ、神様の理想に近づくことができれば、それはとてもうれしい「回復」です。それから、性やジェンダーの罪が絡んでいる場合は、その罪が人と神様との関係に隔たりや障害物を築き、あるべき神様との交わりや親しさを妨害します。ですから、神様との関係が回復するよう願うわけです。

三番目の解決は「解放」です。多くの人々は、ジェンダーや性の混乱や歪みに縛られてしまい、抜け出すことができないことに深く悩んでいます。また、場合によっては性的依存のような状況も伴い、その依存症から解放されたい思いを持つ人々も少なくありません。「解決」には他の側面もきっとあると思いますが、少なくとも「癒し」、「回復」、そして「解放」、この三つは当事者たちがよく重要なこととして挙げています。

では、解決となる主な要因は何でしょう。三つ取り上げたいと思います。

1)まず、コミュニティーが大事です。つまり、自分を受け入れてくれる家族的な交わりの場です。たとえ自分が性転換をしたと思っていても、男性として生まれた方々には男性の交わり、女性として生まれた方々には女性の交わりが必要です。というのは、生まれた時の性別は神様からいただいた性別ですので、その性別の意識とあり方が育つ共同体の中で、しかも性的でない健全な人間関係を体験することで変化が始まるのです。

2)精神的なケアが必要です。つまり、ジェンダーの問題、虐待やDV、人格障害、家庭問題などに詳しい専門家からカウンセリングを受けることによって、問題の根源を分析し、精神面での解決への方向性を見出すことができるのです。

3)霊的なケアが必要です。ジェンダーと性の混乱や歪みには、霊的な側面があります。神様との関係が妨げられ、多くの場合霊的に束縛されています。しかし、聖書には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリ5・17)とあります。しかし、イエス様に従い、罪赦され、救いに与らなくては、この新しく造られた状態を経験することはできませんし、多くの場合、クリスチャンであっても、新しく造られた者として生きることがどういうことなのかが分かりません。そのため、霊的な洞察が与えられ、信仰が成長し、神様の聖霊によって歩むことに導かれる必要があります。

典型的には、コミュニティーの中で健全な人間関係を養いながら、精神面のカウンセリングを受け、霊的指導を受ける時にまずしなければならないことは、破壊的な行動をやめることです。ポルノを見ること、淫らな性行為をすること、依存性に関係する習慣を続けること、自害となるようなことなどをやめる方法を学び、少しずつ新しい習慣や心構えを身につけます。これは時間がかかることで、数年は覚悟して取りかかることが大事です。途中でつまずいたり、逆戻りしたりすることもしばしばありますし、なかなか進歩がないように感じる時もありますが、失望せずに耐え忍ぶことによって癒し、回復、そして解放への道があるのです。

Q

心理療法的カウンセリングは効果的でしょうか。

A

2002年に、著名な研究者であるShidloとSchroederは、同性愛者を対象とした変化療法に関する研究を開始しました。彼らはその論文のタイトルを 「ホモフォビック・セラピー(同性愛嫌悪を結果とする治療法)─その害を記録する」と題しました。しかし、最初の20回のインタビューの後、彼らは賢明にもタイトルを「性的指向の変化」に変更することを選択しました。その理由は、参加者が経験していることが分かったからであり、次のような要因でした。
─望まない同性愛的感情について話すことによる安心感。
─希望と新しい洞察の増加。
─効果的な対処法の取り入れ。
─自尊心の向上。
─帰属意識の向上。
─人間関係の改善。
─および霊的・宗教的感情の増加。

ニコロシら(2000)は、「転換療法」(SOCE)を受けた人たちを調査した結果、次のような結論を出しています。
「治療前または変更前に自分を専ら同性愛者であるとみなしていた318人の参加者のうち、
─56人(17.6%)は、現在、自分自身を専ら異性愛者として見ていると報告した。
─53人(16.7%)は、現在、自分自身をほぼ完全に異性愛者として見ていると報告した。
─35人(11.1%)は、自分を同性愛者よりも異性愛者として見ている。
このように、もっぱら同性愛の調査の参加者の45.4%が、自分の性的指向に大きな変化があったと遡及的に回答している。「また心理的、対人的、精神的な幸福感も大きく改善されたと報告している」。害については、「治療後に心理的、対人的、精神的な幸福の項目のうち3つ以上(17項目中)で悪くなったと報告した」被験者はわずか7.1%でした。

Karten (2006)による、望まない同性への魅力、情欲に対するセラピーを経験した人の研究でも、非常に似た結果が報告されています。
─男性間の恋愛・性欲の表現に対する不快感が統計的に有意に減少した。
─同性愛の感情や行動が統計的に有意に減少した。
─異性愛者の感情や行動が統計的に有意に増加した。
─また、変化の努力の結果として、心理的な幸福感に関して非常に大きなポジティブな変化があった。
─100 % の男性が自尊心の向上を報告。
─99.1 % の男性が社会的機能の向上を報告。
─92.3 %がうつ病の減少を報告。
─自傷行為が 72.6%減少した。
─自殺念慮および自殺未遂が58.9%減少した。
─そして35.9%がアルコールと薬物乱用の減少を報告した(p.87-88)。
Kartenは後にこの研究を拡張し、同様の結果を専門誌に発表した(Karten & Wade, 2010)。

Jones と Yarhouse (2009) は、性的指向の変化とその結果として生じる可能性のある危害に関するこの問いに、これまでで最も厳格な縦断的方法論、つまり、変化を追求する被験者を追跡調査する方法を適用した。「私たちは、エクソダス・ミニストリーズの宗教的に媒介された変化手法に関与することによって、一部の個人に対して性的指向の変化が生じたというかなりの証拠を発見しました(自己分類で23%)」(p.8)。「本研究では、被験者を6、7年間追跡調査したが、これらの個人にとって性的指向を変えようとする試みが平均的に有害であるという証拠は見いださなかった(p.9)」

Black(2017)は、性的指向変更療法(SOCE)の研究で、結論のコメントを書きました。「98人のうち、85人は肯定的なトーンで、否定的なのは7人だけで、6人は混合的だった」と書いています。
─ヘインズ(2019)は、ほとんどがピアレビューされた125 年以上にわたった100もの研究論文を特定しました。これらの研究の多くは、肯定的な結果を報告しています。
─Phelanら(2009)は、1世紀にわたる研究を調査し、主に最近の方法論的に健全な研究に焦点を当て、同様の結果を見いだしました。彼らは「性的指向を変えることを目的とした介入は有害であると主張する逸話もあるが、これらの主張を支持する実証的な文献は不足している」と述べています。無作為調査を用いた研究では、リオリエンテーション療法が有害である可能性が高いと結論付けているものはありません。
─Sprigg(2018)はこう報告しています。〝2000年から2018年までの6つの研究または調査をレビューし、そのすべてが、SOCEは一部のクライアントにとって、性的指向のいくつかの構成要素に大きな変化をもたらすのに有効であることを示している。害はほとんど報告されていない…。これらの研究は、SOCEの有効性の証拠が、その害の証拠をはるかに上回ることを明確にしている。”
このような研究は、同性愛指向変更療法が害をもたらすという主張を覆しています。
どのような精神的病であろうと、心理学的治療を利用した時、害の認識、失敗、再発の可能性など、望ましくない結果をもたらす可能性があることに注意することが重要です。最近のよく設計された調査研究によれば、(例えば、Shidlo、Schroeder、& Drescher、2002;Shidlo & Schroeder、2002;Lambert & Ogles、2004、Santero ら、2018)同性アトラクションのセラピーを受けた後に害を表明する人は、その他の種類の精神的病の心理療法から害を表明する人と同じであることが明らかです。

(上記は、下記においてリンクしています。Dr. Ann E. Gillies,の記事の報告の一部です。
May 2020. https://www.csmedia1.com/restoredhopenetwork.org/harm-and-immutibility.pdf)

Q

ジェンダー意識や性的指向に関する治療を選択する権利はどうでしょうか。

A

ジェンダーイデオロギーの活動家たちは一般的に、ジェンダー意識や性的指向を異性愛者になる方向への変化を当事者たちが求めることも、他人がそのことを勧めようとすることも、変化をもたらす精神医療や宗教的指導を提供することも、人権の侵害、差別、そして精神的虐待として反対します。その根拠とは、LGBTQの人たちは持って生まれた意識や指向のままに生きていると言う主張、そして本質的に変化ができないという主張です。しかし、その考え方は正確でしょうか。

Diamond & Rosky(2016)は、変化を報告したSSA(同性に魅力を経験する者)のうち、男性の変化の67~100%、女性の変化の83~91%が異性愛への変化だったと報告しています。Diamondは、コーネル大学での講演(2013)で関連する知見を要約し、豊富な研究により、性的指向(魅力、行動、自己同一性を含む)は、青年と成人、そして両性にとって流動的であることが立証されたと述べています。「これらの知見の一貫性を考えると、同性の性的指向を一概に不変の特性であると表現することは科学的に正確ではない」(Diamond and Rosky, 2016, p.370)。Diamond(自身もレズビアンであり、アメリカ心理学会ハンドブック『セクシュアリティと心理学』の共同編集者)は現在、LGBT活動家に対して「生まれつきそうだから」と言う神話の宣伝をやめるよう呼びかけています。(ダイヤモンド、2013、ヘインズ、2016)。

では、望まないSSAに悩む人が、単に自分のセクシュアリティのある側面から別の側面へと自然に変動したがっている人たちは、なぜ激しい反対を受けるのでしょうか? それには意味がありません。

ここが問題の核心ですが、SSAを不変の特質と表現することは、科学的に正確ではありません。Diamond and Rosky (2016) は、たとえ性的指向が遺伝子や周産期ホルモンによって完全に決定されたとしても、だから必然的に変化は不可能という意味にはならない、と述べています。「性的指向は覚醒を媒介とする。つまり、性的指向を持つには、信念、欲望、思考などの精神状態が必要なのです」 (Stein, 2014, p.604) 。明らかに精神状態は変化しうるし、変化する。Diamond and Rosky (2016)によれば、不変性に基づく議論を脇に置く最後の理由は、自分のセクシュアリティを選択的、非排他的、可変的と経験する性的少数者を誤って伝え、疎外することであると主張しています。脳の可塑性に関する実質的な研究は、脳が実際に柔軟で可鍛性であることを示します。人間は、並外れた程度の性的可塑性を示します(Doidge, 2007)。脳は適応性があります。私たちが常に抱いている思考や、私たちが生きている環境に適応します。一緒に発火する神経細胞は一緒に配線し、脳内にマッピングされた入力に応じて適応する能力を持つのです(Doidge, 2007, pg.292)。自己と他者に対する認識は変化するものであり、もし私たちがセクシュアリティのある領域で「発火をやめ」、別の領域に焦点を当てることを選択すれば、その後、神経学的な脳地図は変化するのです。このことは、同性に惹かれる人の中には、自分の欲望を変える選択をする能力があることを示唆していると思います。

(Dr. Ann E. Gilliesが書いています:)私の息子はセラピーに成功し、「『同性愛』に自分のアイデンティティーを見出すのをやめたことで、自分のアイデンティティーはセクシュアリティよりもずっと大きなものだとやっと知ることができた」と述べています(2020年、私信)。拘束がなくなったことで、彼はようやく人生におけるアイデンティティーの他の領域を探求することができ、両性愛や同性愛という概念やラベルから解放され、異性愛者の思考や魅力、ついには結婚や家族を追求し、自分の選んだ人生を送ることができるようになったのです。

アメリカ心理学会ハンドブック『セクシュアリティと心理学』(2014年)において、クラインプラッツとダイヤモンドは、「臨床家が、同性の欲求や行動のいかなる経験も潜在的な同性愛の兆候であると決めつけるのではなく、個人が自分の人生とアイデンティティーにおけるセクシュアリティの役割を自ら決定することを認めることが重要です」(第1巻、257頁)としています。

治療的選択を否定する禁止令は、LGBTQコミュニティー内でも、LGBTQとして認識しないことを選択した人たちでも、特定の少数派をターゲットにしています。それは、望まない同性間性的魅力(SSA)を持つ人々です。問題は、望まない同性間性的魅力を持つ人々が希望する治療を受けることを、なぜ抑制する必要があるのか、ということです。

科学は性の柔軟性と流動性を支持しているにもかかわらず、同性魅力の分野では、LGBTQのアイデンティティーという一つの方向性だけに偏っているというジレンマがあるのです。もし、望まないSSAを持つ人々が異性愛者の魅力と行動への性的柔軟性を選択したいと望むなら、それは非難され、彼らは変わるための助けを求めることが許されません。一方、高度な訓練を受け、資格を持ち、有能なセラピストは、クライアントが同性に惹かれる方向に向かう場合のみ、性的流動性を受け入れるよう指示することが義務づけられることになります。(なぜ、もっと多くのセラピストが声を上げないのでしょうか? その答えは簡単で、脅迫です)。

そのような方法でクライアントを操作することは、心理学の分野では容認できないのです。私たちは、宗教的であろうとなかろうと、個人的な価値観のために自分の性的指向を変えたいと望む個人の自己決定を尊重しなければなりません。

聖書を解釈することは…

ジグソーパズルに取り組むようなものです。聖書は論文や取扱説明書のようにトピックを章ごとに綺麗に並べてはいません。聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で、聖書の断片を一つ一つ吟味し、似ているピースと組み合わせていくことによって少しずつ全体像が見えてくるのです。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのまま学び、受け取る姿勢が重要です。懐疑論者や聖書の反対者たちは、聖書の節を文学的、歴史的、神学的な文脈から取り外して、聖書の長年の理解や聖書自体の信頼性を貶めるのです。しかし、ジグソーパズルのピースのように、聖書のさまざまな記述や教えは、その直接的な文脈やより広い文脈の中で意味をなすように設計されているのです。

例えば、批評家は旧約聖書の様々な律法、例えば貝を食べることの禁止、姦通あるいは親に無礼なことをした場合の死刑を挙げて、旧約の律法は現代には無関係であるとか、イエスの教えは旧約の律法に対立するものであったと証明しようとします。

しかし、上記のような解釈の問題に関しては、文脈から正しく理解すると、旧約聖書の律法は3つのカテゴリーから構成されていることが明らかです。

(1)儀式律法、これは将来、人類の罪のために死んでくださるイエス・キリストの身代わりの贖罪を指し示すものであって、このカテゴリーの律法は、キリストの死と復活によって成就され、今ではもう必要ないのです。

(2)神権国家イスラエルの特有な民法は、イスラエルが神の民であり、神の性格と真理を世界に示すために選ばれたことを示すためのものでした。様々な犯罪に対する罰則、食事などの健康に関する規則、イスラエルの人々の社会的正義に関する規則などが含まれます。このカテゴリーも上記(1)と同様に、新約聖書に記されているように、イスラエルの神権政治が崩壊し、異邦人の時代が到来したことで終了しました。そうとは言え、それらの法律は神の罪に対する視点を反映していますし、神の正義に関する感覚も反映していますので、教育的価値は今でもあります。

(3)「道徳律」とも呼ばれ、神の普遍的で絶対的な善悪の基準を定めたもので、どの時代でも全人類に対する神の不変のご性質を反映しています。イエスはこれらの法則を肯定し、決してこれらを覆すために来たのではないと宣言されました。また、全人類が神の善悪の基準に背いたとして、神の裁きの前に立たされることを教えられました。

この3つをどのように区別するのでしょうか。

まず、ほとんどの場合、文学的文脈から明らかにすることができます。例えば、カナン人や他の非イスラエル人がその罪のために罰せられるとき、それは(3)カテゴリーの律法が彼らによって破られたことを明確に示しているのです。第二に、新約聖書の箇所、特に異邦人に向けられた箇所で同じ命令が繰り返される場合、そして特に旧約聖書の箇所の類語や似たような表現をしている場合、これらが普遍的かつ絶対的なものであることを意図していることは明らかである。例えば、旧約聖書では、神によって定められた結婚以外の性行為は禁止されています。新約聖書でも、イエスやパウロ、その他の新約聖書作家によって、明確に禁止されています。

このような解釈の原則は「聖書解釈学」と呼ばれる学問分野であり、聖書を誠実に解釈することに真剣に関心を持つ人なら、勉強する価値のある分野です。

しかし、上記にも書いた通り、聖書を理解するためには、ジグソーパズルをするように、全体像の中で、聖書の断片を一つ一つ吟味する必要があります。そのためには、自分の価値観や世界観を聖書に読み込むのではなく、聖書が語っていることをそのままにする訓練、勉強、謙遜さが必要です。そのような人たちにとって、聖書は新鮮で、魂を再生させ、方向性を示す内容に満ちているのです。

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